滝のように流れ続ける涙雨。
　なかなかおさまらない天の咆哮。
　まるで神の逆鱗に触れてしまったかの如く、荒れ狂う空模様――
　その日のノーザン地方は歴史的な豪雨に見まわれていた。
「なんじゃ騒々しい……これではゆっくり読書ができないではないか」
　書斎から出てきた少女は窓の外に映る光景を見て、ぼやかずにはいられなかった。
この様子だとしばらくは止みそうにない。静寂を好む彼女にとって、この天候は決して喜べるものではなかった。
「わらわは騒々しい環境は嫌いじゃというのに……誰か、これを静めてくれる者はおらんかの……」
　窓の外に無限に広がる闇に向かって、少女はまるで他人事のように感情のない声で呟いた。窓には少女自身の姿が映し出されている。
　長く、流れるような美しい銀色の髪。幼さが残った顔立ちに、哀しみに彩られた漆黒の瞳。そして黒いタキシードに身を包んだスリムな体型。
「そう言えば……あの時もこんな荒れた天気じゃったな……」
　地上に伸びる稲妻を見て、少女の脳裏にある悲しい記憶が蘇る。そして彼女の目の前に、あの忌まわしい出来事が蜃気楼のように浮かび上がった。
　言われるがまま、息を潜めてガタガタと震えていた自分。
　何もできずに、ただ泣き叫ぶだけの自分。
　そして、自分の無力さをただひたすら呪い続けた自分……
　少女は自分が嫌いだった。何度も死のうと思った。しかし、種族の運命がそれを許さなかった。彼女は呪われた種族の運命を断ち切ろうと何度も試みたが、その度に失敗した。そして彼女が選択したこと――それは今のような暮らし、即ち人里離れた山奥で、人知れずひっそり静かに暮らすことであった。
（早いものじゃ……時が流れるのは……）
　少女は憂鬱な気分になり、今日はもう眠ろうと寝室に向かおうとしたが、ふと、歩みを止めた。
（気のせいか……？ドアを叩くような音が聞こえたような気がしたのじゃが……）
　少女はよく耳を澄ましてみる。すると、激しく叩きつける雨の音、全く鳴り止まない雷鳴に混じって、かすかに家の正面入口の扉を叩く音が聞こえる。
（一体誰じゃ？こんな時間に……）
　少女は不審に思いながら、一階への階段をゆっくりと降りていった。
　ドアを叩く音は、だんだんと弱々しくなっていく。しかし、少女は急ごうとはしなかった。別に、少女以外の誰かが応対してくれるだろうと思ったからではない。その客が誰であろうと、少女には余り関心のないことだった。そしてなによりも、この広い洋館の中を走りまわって疲れるのが嫌だった。
　父親はいない。母親もいない。かと言って祖父や祖母もいなければ、兄や妹がいるわけでもない。召使もいない。少女は天蓋孤独の身であり、分不相応とも言えるこの広い洋館に、一人で住んで居た。
　大広間に着くと、その音は既にしなくなっていた。しかし少女は構わずに洋灯に火を点すと、扉を開けた。
　ギギギィー、と重い音を立てながら扉が半開きになる。
「誰じゃ？こんな夜更けに」
　少女はそこから顔を出したが、ただ闇夜が広がっているだけで、誰の姿もなかった。
（……あの音は一体……）
　少女は気になったが、気のせいだったと思い直し、扉を閉めようとした。その時、足元に何かが見えたような気がした。
「誰か……いるのかえ？」
　少女は恐る恐る扉を開け、注意深く足元を見る。すると、一人の少年が倒れていた。
「お、おんし！！大丈夫かえ！？」
　少女は慌ててその少年を揺すってみたが、ただ唸るだけで目覚めようとはしなかった。困ってしまった少女は、とりあえずその少年をじっくり観察してみることにした。
　年の頃は１５、６くらいだろうか。泥まみれの薄汚い格好をしているが、それなりに立派な剣を持っているところを見ると、どうやら旅の途中らしい。黒い髪はぼさぼさで、彼の苦難の旅を物語っている。一見とても気が弱そうで、頼りなさそうな顔だ。体型はがっしりしているわけではなく、どちらかと言うと弱々しい感じがする。
（何故こんな人間の少年がこんな山奥に……？）
　少女は不思議に思ったが、それ以上に幸運を感じずにはいられなかった。
（久しぶりのご馳走……ゆっくりと味わわせてもらうことにするかの……）
　少女はその少年に視線を落としながら冷たい微笑を浮かべた。口元に隠されていた牙が怪しく光る。そして、その少年を抱きかかえると、ふらふらとした足取りで客室へと運んでいった。
　実はこの少女は、ヴァンパイアの末裔であった。それゆえに長命で、少女も既に６００年は生きていた。また、とてもプライドが高く、高飛車であり、協調性という面では少し欠けているところがあった。人間の血を吸わないでも生きていくことはできたが、少女は人間の血が大好きで、また、過去の恨みから時折町に降りては人間を襲い、血を吸っては殺していた。
（お、重い……こやつ、もう少しダイエットした方がええぞ……）
　いくらヴァンパイアであるとはいえ、少女なので非力であることには変わりない。やっとの思いで少年をベッドの上に寝かせると、息をきらせながら獲物の品定めを始めた。
（あまり美味しそうではないな……さてさて、どうしたものか……そうじゃ！）
　少女はあることを思いついて、ニヤニヤと笑い始めた。
（ただ食すだけでは芸がないからな……少々、わらわを楽しませてもらうぞ）
　少女は、これからのこの少年の運命を自分が握っているのかと思うと、楽しくて仕方がなかった。それはまるで、獲物を目の前にした狩人のようであった。
「う、うーん……」
　しばらく少女が見守っていると、少年がかすかに意識を取り戻した。
「気がついたかえ？しっかり気を持つのじゃ」
　少女は穏やかに少年に話しかける。彼女の言葉に少年は無意識に反応するかのように、苦しそうに口を開いた。
「……こ、ここ……は……」
「安心せい。わらわの館じゃ。おんし、名をなんと申す？」
「ボ、ボクは……ルディ……」
　少年はそれだけいうと、再び気を失ってしまった。
「ルディか……なかなかよい名じゃな」
　少女は満足そうに頷くと、雷光を背に、不気味に微笑みながら静かに呟いた。
「わらわの名はリーザじゃ」
　騒がしく、そして静かな夜は、だんだんと更けていった。