滝桜恋慕帳

　刺激的な日常を求めて、稚内からこの列車に乗ったのは３日前のこと。日本縦断特急ヴェガは夢の岬を目指してひたすら走り続けていた。
（今日でもう３日経ったのか……）
　光陰矢のごとしはよく言ったもので、あっという間に時間だけが過ぎ去っていく。
　俺はふぅ、とため息をついて窓の外を眺めた。
　既に外の世界は闇夜に包まれて、その景色を窺い知ることは出来ない。変わりにそこには俺自身の姿が映し出されていた。
（そういえば、今日もいろんなことがあったな）
　俺はそれを眺めながら、この静かな空間の中で一人物思いにふけっていた。
（しっかし、この列車に乗ってるといろんな事が起こるよな。この先どんな出会いが待っているんだろうか……）
　俺がある少女の笑顔を思い浮かべ、嫌な予感が脳裏をよぎった時のことであった。
「あ、お兄ちゃん見つけた！！」
　静寂をぶち破るかのようにドアが開くと、大声で騒ぎながら俺のところにかけよってきた少女がいた。
「やっぱり……なんとなく嫌な予感したんだよな……」
「え？なに？嫌な予感って？」
「あ、いや、なんでもない。ただの独り言だ」
　俺はその少女の機嫌を損ねないよう、適当なことを言ってなんとか誤魔化す。
　彼女の名は七尾つばさ。札幌の町を散策していた所を、十数年ぶりに偶然に再会した、俺の幼馴染の妹だ。
　聞く所によると、なんでも兄貴が結婚すると言うことで、そのお祝いのため単身ヴェガに乗ったという。
　昔はやんちゃでおてんばだったので、成長して少しはおとなしくなったかと思ったら、さらに輪をかけて騒がしい娘になっていた。その割には身体の方がちっとも成長してないのいうのはいささか疑問を感じるが、こんなことを言ったらどんな目にあうかわかったもんじゃないので、口が裂けても言わないようにしている。
「それでなんだ？俺に用があるんだろ？」
「うん。暇だから遊んで♪」
「あのなぁ……」
　予想通りの答えに、俺は頭を抱えた。
「ここは列車の中だぞ。少しは静かにできんのか？見ろ。お前が騒ぐおかげで他の乗客も迷惑してるじゃないか」
「他の乗客って……この車両にはお兄ちゃんしかいないよ？」
「え！？」
　俺は慌てて周りを見渡す。確かにつばさのいうとおり俺と彼女以外は誰もいない。
「お兄ちゃん……！！」
「え、えっと、なんだ。と、とにかく、俺はこの静かな空間の中で今日１日の楽しい思い出の余韻に浸りたいんだ」
　ジド目で睨むつばさに額に汗を掻きながら俺は必死で弁解しようとしが、それも空しい努力だった。
「暇なの退屈なのつまんないの〜！！このままここにいたら死んじゃう〜！！」
　つばさは得意の駄々をこねだした。こうなってしまっては、もう手のつけようがない。
「ああ、もうわかった！！とりあえず、売店にでも行ってみるか」
「うん！！そうしよそうしよ。だからお兄ちゃんってだーいすき！！」
「わ、こら！！腕にしがみつくんじゃない！！」
　俺が席を立ちあがって通路に出ると、つばさは俺の腕にしがみついてきた。
（はぁ……桜井さんくらいにおしとやかだったらなぁ……）
　あのころの面影が残る少女を見ながら、俺はそう感じずにはいられなかった。
「いいか？俺はあんまりお金ないから、変なもの欲しがるんじゃないぞ」
「はーい♪」
　大丈夫かなぁ……と、一抹の不安を抱きつつ、俺達は売店に向かった。

「いらっしゃいませぇ〜！え〜と……『仙台の観光ガイド』はいかがですか？」
　売店の前に立つと、添乗員のお姉さんの根岸ちひろさんが、いつもの調子で声をかけてきた。
「仙台の観光ガイドだって。お兄ちゃん、どうする？」
「どうするもこうも……どうせ買わせるつもりなんだろ？」
「えへへ。やっぱりわかった？」
「当たり前だ。お前の考えてることなんて、大体わかる」
「えっ！？そうなの？」
「おうよ。今、お前が何考えてるか当ててやろーか？」
「う、うん」
「『やっぱ仙台って言ったら魚市場よね。お兄ちゃんと一緒にいってたっくさんおさかな食べてこないと。もちろん、全部お兄ちゃんもちで♪』」
「す、すっごーい！！なんでわかったの！？」
「『それで、たっくさんおさかな食べた後は胸が大きくなるように神社にお参りに行って』……はっ！！」
　つい調子に乗ってベラベラ喋ってしまった俺は、とんでもないことを口走ってしまったことに気がついて慌てて口をつぐむが、完全に手遅れだった。つばさは険悪な目つきで俺を睨んでいる。
「……お兄ちゃん……！！」
「わ、わ、す、すまん！！つい本当のことを……やべっ」
「『本当のこと』ですって！？どーせ、あたしは胸が小さいですよーだ！！お兄ちゃんのスケベ！！」
「わ、や、やめろ！！痛いって！！」
「きらいきらい！！お兄ちゃんなんて、だ〜いっきらいっ！！」
　余計な一言でさらに火がついてしまったつばさは、両手の拳をグーにして俺の胸をポカポカと叩いてきた。
「楽しそうですねぇ。お二人さんって、ほんとお似合いのカップルですね」
　その様子をちひろさんは、楽しそうに見守っている。
「へ、変なこと言わないでくださいよ！！俺とこいつは、ホントなんにもないんですから！！」
「そんなに力いっぱい否定しなくってもいいじゃない！！」
　つばさの攻撃はさらに激しさを増してくる。もはやこの事態を収集するためには、奥の手を使うしかないようだ。
「わ、悪かった！俺が悪かった！！謝るから許してくれ！！この通り、な？」
「……ホントに反省してる？」
「ああ、本当に反省してるって。悪かったよつばさ。本当にゴメン！！」
「そこまで言うんなら……許してあげる」
　俺の必死で頭を下げる態度に、少し涙目になっていたつばさがにっこりと微笑んだ。ホッと胸をなでおろすのも束の間、予想通りの言葉が飛んできた。
「チョコパ３杯ね♪」
（やっぱり……）
　覚悟していたこととはいえ、俺はその申し出を承諾するしかなかった。
　昔からつばさは甘いものとうまいものには目がなかった。そのきゃしゃな身体のどこにそんなに食べ物が入るんだ、胃がブラックホールになってるんじゃないかと、不思議に思うくらいよく食べる。先日の札幌でも、その大食漢ぶりをいかんなく見せつけられたばかりだ。
（チョコレートパフェ３杯ですめば安いもんか……でも……）
　つばさがそれだけで満足するとはとても思えない。どうやら予定外出費を考えて、財布と相談しなければならないようだ。
「それじゃ、帰るか」
「あの……観光ガイドブック……」
「え？あ、すっかり忘れてた」
　おっとりとしたちひろさんの言葉に、俺はここに来た本来の目的を思い出した。
「もう！！しっかりしてよねお兄ちゃん！！」
「悪ぃ悪ぃ。観光ガイドは買うとして、つばさはなんか欲しいもんあるのか？」
「あたし？えーっと……あっ、このなまちゃんのぬいぐるみがいいな♪」
「お、お前、こんな物がほしいのか？」
「こんなものって、お兄ちゃん知らないの？今女の子達の間で、すっごく流行ってるんだよ」
「へぇ〜……こんなものがねぇ……」
　俺はつばさが指差したそれを見てただただ驚くしかなかった。
　愛嬌があると言えなくもない間抜けな表情。
　青く染まったずんぐりむっくりの胴体。
　なまずなのかあざらしなのか、得体の知れない外見。
（女の子ってこーゆーもんが好きなのか？）
　とても理解に苦しむが、それが女の子というものなんだろう。現実を見せられてはそう納得するしかない。
「お兄ちゃんは何買うの？」
「俺は、そうだな……」
　俺は視線をその青い物体から他の品物に移した。ガイドブック、イカの燻製、烏龍茶に喉飴……いろいろな物が所狭しと、きちんと整頓されて並べられている。
「ん？これは……」
　その中の一点で、ふと俺の視線は止まった。他のガイドブックに埋もれるようにして、古びた本が置かれていた。他にはなさそうなので、どうやらこれ一冊だけらしい。手にとって見ると、文庫本くらいの大きさで、表紙には立派な桜の木の写真が載っている。
「ちひろさん、これは？」
「ああ、それですか。えーっと……それは、三春の滝桜ですね」
「滝桜？」
「ええ。もう、すっごくキレイな桜のお花が沢山咲くことで有名で……」
「ふーん。そうなんだ」
　俺はなんとなく気にはなったが、今の時期に桜が咲いてるわけでもなし、その本を戻そうとした。すると、横から嫌な感じがする視線を感じた。
　まさかと思いつつ、視線を横にずらすと案の定、つばさがニコニコしながら興味深そうに俺を見つめていた。
「おにーちゃーん。つばさのお願い、聞いてくれる？」
「な、なんだよ。急に猫なで声なんかになったりして。まさか、これが欲しいって言うんじゃないだろうな？」
「そのま・さ・か♪あたし、それも欲しいなぁ〜」
「おいおい。こんなもん買ってどうする気だ？コレクションにでもするのか？」
「決まってるじゃない！行ってみるの！！」
「は？今は夏だぞ？」
「それでも行ってみたいのぉ〜！！あたし、滝桜をこの目で見てみたい！！」
「だから桜は咲いてないって……」
「お兄ちゃん……お・ね・が・い♪」
　つばさはこれ以上ないというくらい、甘い声でおねだりしてきた。これでもし断ったら、今度はかんしゃく玉を破裂させて駄々をこねまくることは、まず間違いない。
「はぁ……わかったよ。これもください」
「はい。お買い上げありがとうございます」
　俺は品物を受け取ると、人形の方をつばさに渡した。
「それじゃあお兄ちゃん、明日は早起きして福島県に行こうね♪」
「はいはい。お供させて頂きます、つばさ姫様」
「うむ。わかればよろしい」
　つばさは得意満面の笑みを浮かべながら、満足そうに頷く。
「お兄ちゃん、寝坊したら許さないんだから！！」
「大丈夫だって。お前こそ、寝坊するなよ」
「はーい♪それじゃお兄ちゃん、おやすみなさーい」
　はしゃぎながらスキップをして個室に戻っていくつばさを、俺は苦笑しながら眺めていた。
（仙台の観光……できそうもないな……）
　気が重くなったがこうなってしまっては仕方がない。俺は半ば諦めて、とぼとぼと自分の部屋に戻っていった。

　ＪＲ仙台駅から東北新幹線で郡山まで下り、そこから磐越東線に乗り換えて三春まで行く。そして駅前でタクシーに乗って１５分くらいかかる場所に滝桜はあった。
　樹齢１０００年ともいわれる非常に大きな、紅しだれ桜の「１本桜」で、国の天然記念物でもある。濃いピンク色の花を滝から流れ落ちるように咲かせ、その色の美しさ、その雄大さは見る者を圧倒し、絶賛させる……と、この本には書かれている。しかし現実はというと……
「ちょっと！！なんで咲いてないのよー！！話が違うじゃない！！」
「当たり前だ！！だから咲いてないって言ったろ！？」
　すっかり花が散り尽くした、流れ落ちるように垂れ下がっている枝だけの桜の木を見て、つばさは一気に不満を爆発させた。
（だからこうなるってわかっていたのに……）
　あまりにもピタリと的中している予想に、俺はため息しか出てこない。
　この堂々とした風格の木から、確かに花をつければ感嘆するほどの風景になるに違いないが、いかんせんそれも夏では無理というものか。当然のことながら、観光客はまったくいなかった。
「こんな枯れた木見てもしょうがないじゃない！！桜が満開の滝桜を見たいの〜！！」
「はぁ……頭痛くなってきた……」
　これではまるで子供のお守りをしているのと代わりない。俺はだんだん泣きたくなってきた。
（今ごろ仙台に残っていれば……桜井さん達と一緒に遊べたのになぁ……）
　今ごろ泣き言を言っても始まらない。とりあえず、俺はつばさを茶店にでも連れてって機嫌をとろうと考えた。
「とりあえず茶店にでも行って何か食べるか？」
「うん……」
　つばさは力なく頷く。その姿はとても弱々しいもので、なんだか見ていて可哀想になった。
「元気出せよ。春に来ればいいじゃん。な？」
「そうだね……。はぁ……これじゃあここまで来た意味ないじゃない……あれ？」
　ふとつばさは立ち止まり、滝桜の方を指差した。
「どうしたんだ？」
「お兄ちゃん、あの人……」
「ん？なんだ？」
　俺はつばさの指差す方を見ると、そこに花が散った滝桜をおっとりと見つめる少女がいた。
「どうしたの？そんなに真剣に桜の木を見つめて」
　つばさの言葉にはっと我に返った少女は俺達の方を振り向くと、恥ずかしそうに顔を赤らめた。ベージュ色のワンピースを身にまとい、日よけのためか麦藁帽子をかぶっている。どことなく顔色がよくなく、今にも消え入りそうな、そんな雰囲気が漂っている。
「すみません。こんな花をつけてない桜の木を眺めるなんて、やっぱり変ですよね」
「変じゃないと思うけど、ちょっと変わってるとは思うよ」
「お、おいつばさ！！失礼だぞ！！なにかわけありかも知れないじゃないか」
「いえ、いいんです。よく人から変わってるって言われますから。ところであなた方は？」
「あたし？あたし、七尾つばさ！！でこっちが彼氏のお兄ちゃん。今日はここにデートに来たの♪」
「ちょ、ちょっとまてい！！いつから俺がお前の彼氏になったんだ！？」
　つばさの思わぬ発言に、俺は慌ててそれを否定した。おそらくその場の勢いか、つばさ流の冗談で言ったんだろう。少なくとも俺はそう思っていた。
「あはは。やだなぁお兄ちゃんってば。冗談に決まってるじゃない」
「やっぱり……はぁ、もういい加減にしてくれよ」
「ゴメンゴメン。だってお兄ちゃんからかうと面白いんだもん」
　つばさが笑いながら謝る素振りを見せる。その表情には、どこか寂しさのようなものが浮かんでいた。
「そうですか。素敵な彼氏さんですね」
　しかし少女は、俺達のやり取りを全く聞いてなかったかのように、おっとりとした口調で信じられないような言葉を発した。
「そう思います？」
「ええ、とってもお似合いですよ」
「『お似合い』だって！！よかったねお兄ちゃん♪」
「へいへい。そりゃどーも」
　なんとなく目が輝いているつばさを見て、俺は反論する気力を失い、成り行き任せの返答をすることにした。
（ああ、これでまた出費が増える……）
　俺はこの場所に来てしまったことを、心底後悔した。日は既に真上に昇っている。
「素敵な彼氏さんと一緒だってことは、ひょっとして伝説を信じてこの場所にいらしたんですか？」
「え？伝説？なにそれ？お兄ちゃん知ってる？」
「いや、知らないけど……」
　俺とつばさは互いの顔を見合わせた後、その少女を見る。
「あら？二人ともご存知ないんですか？私はてっきり、伝説を知ってるのでここにいらしたものと思ったのですが……」
「ねえねえ、どんな伝説があるの？」
　つばさは興味津津な様子で、少女に話をせがむ。よほど伝説とやらが気になるらしい。
「それではお話し致しましょう」
　少女は静かに目を閉じると、何かを思い出すようにゆっくりとした口調で語り出した。
「それはもう、今から数百年前のことです。当時この辺に小さな村があって、貧しくはありましたが、お互いに助け合ってその日その日を暮らしていました。ところがある年、日照りが続いて農作物が全く取れず、飲み水にすら困るという飢饉が発生したのです。村人達が祈祷師に相談しましたところ、村の娘を一人、雨を降らせるための人柱にせよとの天からのお告げがあり、村人達は一人の娘を人柱にすることを決めました。ところがその少女には将来を誓い合った殿方がいて、その人と一緒に村から逃げようとしたのですが、それに感づいた村人達が、その男性を殺してしまったのです。目の前で最愛の人が殺されてしまった少女はもはや生きる気力を失い、そのまま人柱となりました」
「かわいそう……恋人目の前で殺されるなんて……」
「村人達が祈祷師と一緒にお祈りしていると、突然天が曇り出して、瞬く間に雨が降り出したのです。それは豪雨と呼べる、凄まじいものでした。それを見て村人達はとても喜びました。そして少女を解放しようとしたのです。するとその時、一筋の閃光がものすごい轟音とともに少女めがけて落ちてきたのです。あまりの眩しさに、村人達は思わず手で目を覆い隠しました。しかし再び視界が開けたとき、そこに少女の姿はなく、代わりに花を咲かせた一本の桜の木が立っていました。その桜は、まるで涙が流れ落ちるかのように、枝が滝のように垂れ下がって咲いていたのです。村人達は少女のおかげで村が救われた、この桜は少女の生まれ変わりだと信じて疑わず、この桜に『滝桜』と名づけました」
「へえ、この桜にそんな伝説があるんだ。でもなんだかやりきれない話だね」
「ああ、そうだな」
「ええ。そこで終わってしまえばただの悲劇の伝説なんですが……実は続きがあるんです」
「えっ！？」
「少女は桜になったと思われていましたが、彼女はまだ死んでいませんでした。自分のような悲劇を繰り返させないために、この桜の下で常に見守り、この桜の木の下で結ばれたカップルは永遠に幸せになれると言い伝えられています。そして彼女自身も、もう２度と戻ってこない自分の最愛の人を待っているとも……」
「なんだかロマンチックな話だけど……やっぱり悲しい話だね」
「でも伝説なんだろ？あんまり気にすることないと思うんだけどな」
「ええ、そうですね……」
　少女は目を開き、滝桜を見上げた。その目はどこか遠くを見ているような感じがした。
「お兄ちゃん、やっぱりここに来てよかったね」
「そうか？俺は疲れただけだ」
「んもう！！お兄ちゃんって、ほんとデリカシーがないんだから！！」
「まぁまぁそう言うなよ。つばさがこんなに女の子っぽいとは思わなかったんで」
「なんですって！！」
　途端につばさはいつものように怒り出す。もう少し、広い心を持ってくれればいいのだがと思ってしまう。
　その時、つばさの持ってきたバッグの中が光っていることに俺は気がついた。
「お、おいつばさ……お前、何を持ってきたんだ……？」
「え！？キャ！！なにこれ！！お兄ちゃん何とかしてよ！！」
「なんとかって言われても……」
　あまりにも突然の出来事に、つばさは慌てて俺の後ろに見を隠すようにしながら自分の持ってきたバッグを見つめる。何がなんだかわけがわからないので、とりあえず俺はその物体を取り出してみることにした。
「こ、これか……光ってる物体は……」
「お、お兄ちゃん……大丈夫……？」
「あ、ああ……なんとか……」
　そーっとバッグの中に手を入れて、慎重にその物体を取り出してみると、それはつばさが昨日売店で買った奇妙な生物のぬいぐるみであった。
「あ、ああ！！」
　それを見た少女の目の色が変わった。つぶらな瞳から真珠のような涙が、幾度となく零れ落ちてくる。
「え、ど、どうしたの？」
「もうだめかと思ってたけど……やっと……やっと……」
「な、なんだ！？」
　少女の涙に共鳴するかのごとく、人形の光は一層激しさを増していき、ついには目を開けていられない状態にまでなった。
「お兄ちゃん、これって一体！？」
「俺に聞くな、俺に！！」
　俺達はわけもわからず、パニック状態に陥る。冷静になろうとしても、状況がそれを許さなかった。
　突然視界が開けてきた。しかし目は開けていない。何故か脳裏に、そのイメージが鮮明に映し出されたのだ。
　それは満開に咲いている滝桜を背に、先ほどの少女と一人の少年が立っている。
「お兄ちゃん……なんで花が咲いてるの？」
「わ、わからん……」
「そ、そうだよね……でもキレイ……」
「あ、ああ。そうだな……」
　俺達はただ呆然とその景色を眺めていると、少女と少年の姿がだんだんと消えていった。
「え、あ、あの……」
「ありがとう……ほんとうに、ありがとう……」
「あなた達のことは、絶対に忘れません……」
　そんな言葉が聞こえたような気がした。
　再び目を開けると、そこには何事もなかったかのように俺達がここに来た時と同じような風景が広がっていた。ただ一点、少女と人形がいなくなっていることを除いて……

「ねぇお兄ちゃん」
「なんだい？つばさ」
「不思議な体験だったね……」
「ああ、そうだな……まるで夢を見ているような感じだった……」
　帰りの東北新幹線の車内。俺とつばさは先ほど見た体験の話をしていた。
「あの二人……幸せになれるといいね」
「なれるさ。何百年も待ち続けていたんだからな」
「そうだね。あ、そうだ。今度は桜が満開に咲いてるときにこようね」
「ああ、いいとも。そのほうがあいつ等も喜ぶだろうからな」
「ほんと？約束だよ……」
「ああ、約束約束。ところでつばさ、お前……あれ？」
　俺が隣りの席を見ると、つばさは静かな寝息を立てながら眠っていた。
　よほど疲れたのだろう。少し呼びかけても起きる様子がない。
（あんなにちっちゃかったのに……こんなに大きくなりやがって……）
　俺は少し悪戯心を出して、ほっぺたをツンツンと突ついてみた。マシュマロのようにとても柔らかい。
「お兄ちゃん……」
「わっ！？……なんだ、寝言か……」
　俺は慌てて手を引っ込めたが、どうやら寝言のようでホッと胸をなでおろした。無邪気に微笑みながら静かに寝ているつばさをみて、どことなくドキッとした感覚に襲われた。
（ひょっとして、俺の夢でも見てるのか？……まさかな……）
　腕時計に目をやると、まもなく午後６時の時刻を刻もうとしていた。
（仙台の七夕祭りには間に合いそうだな）
　俺は結局使うことのなかった仙台のガイドブックを取り出し、それを読み始めた。
　俺達のヴェガの旅は、まだまだ続く。