歩道の脇に植えられた街路樹は、真夏の陽射しを浴びて青々と輝いていた。
あちらこちらから聞えてくるセミの大合唱が、さらに暑く気だるい気分に拍車をかける。
時折涼風が吹いて気分を爽快にしてくれるものの、すぐに汗が噴出してくるほど町中は暑かった。
「ふぅ……今日はあっついなぁ……」
瞳は立ち止まって額の汗をハンカチでぬぐうと、空を見上げた。
真っ青に晴れ渡った空。
カンカンに輝き照り付ける太陽。
少しでも焼けば、あっという間に小麦色の肌ができあがってしまいそうだ、と瞳は思わずにはいられなかった。
「イヤんなっちゃうなぁ……もう少し、涼しくってもいいのに……」
瞳はハンカチをしまうと、目的地に向かって再び歩きだした。
受験生に油断は禁物だ。
そんなことは彼女は百も承知していたが、だからといって、この戦意を奪う暑さにはどうすることもできなかった。
そこで彼女は、気分転換も兼ねて参考書を買いに、本屋へ行くことにしたのである。
瞳は本屋につくと、少し表情を緩ませながら安堵のため息をついた。
「やっとついたぁ……」
いつもなら苦にならないはずの距離ではあるが、今日に限って言えばここまでの道のりは遠く険しいものに感じられた。
瞳はいくらか楽な気分になって、店内へとはいった。
途端にひんやりとした心地よい寒気が瞳の肌を包みこむ。
「うーん……やっぱり涼しいなぁ……」
瞳は満足そうに頷きながら、目的の本棚へと向かった。
外の灼熱地獄のような世界とはうってかわって、本屋の中はとても涼しい天国の世界が広がっている。
いつまでもこの場所にこうしていたい、店内は瞳を始めとして、訪れている客にそんな気分にさせる雰囲気を持っていた。
「あれぇ？」
瞳はふと、見慣れた人物を発見して歩を止めた。
その人物は、何かの本を食い入るように読みながら、時折眼鏡を直す仕草をして、一人頷いている。
「ひょっとして……ナナさま？」
瞳がその人物に近づいて声をかけると、少女は顔をあげて瞳を見た。
「あっ、瞳じゃない。珍しいわね。こんなところで会うなんて？」
「あたしもビックリしたよ。ナナさまがこんな所にいるなんて……何、読んでたの？」
「これよ」
ナナさまは瞳の質問に、本の表紙を見せた。
そこには大きな赤文字で『今月のレシピ本』と書かれている。
「ひょっとして……料理の本？」
「そうよ。ナナ達がみんな夏風邪でダウンしちゃってね。何かおいしいものをつくってあげよっかなぁ、って思って。特に、ナナには早く元気になって貰わないと」
「そっかぁ……それで元気なナナさまが」
「まったく……夏休みだからいいもの……気がたるんでる証拠よ」
ナナさまはハァっと深くため息をついた。
「こんなことじゃ先が思いやられるわ。『夏を征する者は受験を征す』っていうくらい、受験生は夏休みが勝負だって言うのに」
「まあまあ。それだけナナも頑張ってるってことだから」
瞳は苦笑いをしながらフォローをいれる。
「あたしも、後でお見舞に行くことにするね」
「ありがと。瞳がきてくれたらナナも喜ぶと思うわ」
ナナさまはニコッと笑う。
「ところで瞳は？やっぱ参考書でも買いにきたの？」
「うーん……半分は当たってる……かなぁ？」
瞳は顎に人差し指を当てながら、アハハと力なく笑った。
「……ってことはやっぱり、半分はサボりなわけね」
「だってぇ……流石にこう、暑いと……」
「瞳でもやっぱり、そうなんだ？まぁ、確かに気持ちはわからないでもないけどね」
ナナさまはパタンと本を閉じると、再び眼鏡をかけなおした。
「でも、あんまり度が過ぎると、足元すくわれちゃうわよ？まぁ、瞳だったらナナみたいに勉強がおろそかになる、ってことはないと思うけど……それじゃ私、そろそろ行くから」
「えっ？もう行くの？」
「ええ。これから買い物とかしなくちゃイケナイから」
ナナさまは瞳に別れの挨拶をしてレジへ向かおうとした。
「あれぇ？鈴木さんに小野寺さん？」
ふと、聞き覚えのある声が、二人を呼び止めた。
「か、神近君？」
「えっ……神近、君？」
瞳の言葉に、ナナさまも歩を止めて、ぎこちない動作でその声のする方向に振り向く。
そこにはナナと瞳の同級生、神近が立っていた。
「珍しいね。二人とも、こんなところで会うなんて」
「そ、そうね。あたしとナナは参考書を買いにきたんだけど……神近君は？」
「僕？僕は……ちょっと気分転換に、かな？」
「えっ？」
「流石にこう、暑いとね。少しくらい息抜してもいいんじゃないかなぁ、って思って」
「そ、そうなんだ？やっぱり、こう暑いと勉強がはかどらないから、息抜も必要よね」
「ナナさま……さっきと言ってることが違うんじゃ……」
頬をほんのり赤く染めて、額に汗を浮かべながら、あははと笑うナナさまに、瞳がそっと耳元で囁く。
ナナさまは言葉で答えるかわりに、軽い肘鉄を瞳に返した。
神近はそんな光景を不思議に眺めながら、何かを思い立ったらしくポンと手を叩いた。
「そうだ。二人とも暇？」
「あ、あたしは……暇かなぁ？」
「は、はい。とても暇でございます」
「よかった。この近くに知り合いの人がやってる喫茶店があるんだけど、よかったらそこに行かない？」
「え、ええっ！？」
思いがけない神近の申し出に、瞳とナナさまは目を丸くして互いを見た。
「ダメかな……やっぱ？息抜には最適だと思ったんだけど……」
「ご、ゴメン。神近君。あたし、急用あったの思い出したよ。ナナと二人で行ってくればいいんじゃないかな？」
「え、ええっ！？ちょ、ひ、瞳……」
「絶好のチャンスじゃない。ナナには黙っててあげるから、頑張りなさいよ」
瞳はナナさまにそっと囁いて肩をポンと叩くと、そのまま店を出ていってしまった。
残されたナナさまは呆然とするしかなかった。
「鈴木さん……どうする？イヤだったら別にいいんだけど……」
「い、いえ、そんなことありません！！喜んで、お供させていただきます！！」
神近が心配そうにいうと、ナナさまは少し声高になりながらはっきり了承の返事をした。
喫茶店の中はひんやりとして涼しかった。
クラシックなＢＧＭが流れ、紳士淑女が通ってくるような大人な雰囲気を演出している。
しかし、いまのナナさまにはそんなことはまったく頭になかった。
ただ一点、目の前に据わっている人物へと視線が集中し、全神経がそそがれている。
「（憧れの神近君がこんなに近くに……これってデートよね……夢じゃないわよね……）」
「あ、あの……鈴木さん……」
「は、はい、なんでしょう？？」
「僕の顔に何かついてる？さっきからジッと見ているようだけど」
「えっ？あ、そ、その、なんでもないです」
ナナさまは真っ赤になりながら慌てて視線を落とす。
「？」
神近は不思議に思ったが、それ以上は詮索せずに、コーヒーカップを手にとって口元へと運んだ。
しばらく、無言の時間がながれる。
「（どどど、どうしよう……せっかくのチャンスなのに、何か、何か話さないと……）」
いつもは冷静沈着でいるナナさまではあったが、神近を前にしては、その冷静な判断力も失われつつあった。
頭の中に単語が思い浮かんでは消え、消えては思い浮かんでいく。
しかし、それが言葉になることはなかった。
「あっ、そうだ。鈴木さん、ナナレンジャーって知ってる？」
不意に、神近がナナさまに話しかけてきた。
「は、はい。知ってます。最近街を騒がせている、あの『受験戦隊ナナレンジャー』のことですよね？」
「そうそう。『受験番号６２３』でも話題になってる」
神近は笑いながらコーヒーカップを置いた。
「彼女達って自由に大空を飛び回れるんだよね。なんだか羨ましいなぁ、って思って」
「えっ？」
「ほら。鳥とかは自由に大空を飛びまわれるけど、人間はそれができないよね。だから自由に大空を飛びまわれるっていうのは、どんな気分なんだろうなぁ、って思って」
「……多分、とっても気持ちがいいことなんじゃないかな？」
ナナさまは本当のことを言うわけにもいかず、困った末にこの答えを導きだした。
「やっぱり鈴木さんもそう思う？」
「うん。なんの束縛もなく、自由に大空を飛びまわれるなんて、とってもステキなことじゃない」
「そうだよね……とってもステキなことだよね……」
神近は微笑みながら窓の外に広がっている大空を眺めた。
「いつかは僕も自由に飛びまわってみたいな……あの大空を……」
「神近君……」
ナナさまはそんな神近の横顔にポーっと見惚れてしまった。
もう、言葉なんてものは思い浮かばなかった。
「鈴木さん、お互い受験頑張ろうね」
「は、はい！！」
神近の言葉にナナさまは大きく頷く。
それからナナさまは神近と楽しい談笑の一時を過ごすのであった。
そして……
神近と別れて帰宅したナナさまは、御見舞いにやってきた瞳が口を滑らしてしまったことによって発覚してしまった、事の一部始終について他のナナ達から報復の洗礼を受けることになるのであった。
