まだ残暑の残るある初秋の日曜日の午後。
　ジュンは独り、椅子の背もたれに寄りかかりながらボーっと外の景色を眺めていた。
　空一面には、雲ひとつない澄み切った青空が広がっている。
　開け放った窓の外から時折吹いてくる乾いた風が、妙に心地よい。
「静かだなぁ……」
　ジュンはしみじみと呟きながら、午前中の騒動を思い出していた。
　朝早く真紅にたたき起こされ、雛苺に朝食のイチゴを奪われ、姉のノリが物置から引っ張り出してきた子供用ビニールプールの空気を入れさせられた上にシャワー係までさせられて……
　その三人はジュンの同級生であるトモエの家に行っているので、今はいない。つまり今家にいるのはジュン独りだけだ。
　一体どれくらいぶりだろう。こんなに静かな時間を過ごすのは。
「いいよなぁ……平和って……」
　ジュンはポツリと呟いた。と、視界にその平和をぶち壊す悪魔の使者が飛び込んでくる。
「げっ！！」
　ジュンはたちまちのうちに表情を強張らせた。
　その悪魔の使者、空飛ぶトランクは猛スピードでジュン目がけてつっこんでくる。
「う、うわぁぁぁぁぁぁっっ！！」
　ジュンは仰け反るようにして、椅子ごと倒れた。
　そのすぐ上を、暴走トランクがかすめて行く。
　トランクはそのまま床に激突する寸前で急ブレーキをかけて止まり、ゆっくりと床に下りた。
　そしてバタン、とフタが勢いよく開く。
　中から翠星石が現れた。
「やい！チビ人間！！暇だから遊びに来てやったですぅ！！感謝しろですぅ！！」
「なんだとぉ！？なんで僕がお前に感謝しなくちゃいけないんだ！！」
　いきなり偉そうな態度を見せる翠星石を、ジュンは立ち上がって睨みつける。
　翠星石は呆れた様子で溜息をついた。
「まったくオマエはもっと素直になれないんですか？せっかく私がこうして遊びにきてやったのだから、お菓子のひとつくらいも出しやがれですぅ」
「だ・か・ら！僕は遊びに来てほしいなんてこれっっっっぽっちも思ってない！」
　ジュンは右手の親指と人差し指を触れるか触れないかというくらいに狭めて、小さな空間を作る。
「真紅や雛苺がいなくなってよーやく静かになったんだ。たまには独りにさせてくれ！」
「えっ？真紅やチビ苺はどこかへ行ったのですか？」
「姉ちゃんと一緒にトモエの家へ行った。さ、もうわかっただろ？さっさと帰れ！！」
「むむむ！！なんて言い草！こーなったら、お菓子貰うまで絶対に帰ってやるもんかですぅ！！」
　翠星石はトランクの中に腰を下ろし、腕組みしながらふてくされた表情でジュンを睨みつける。
「……勝手にしろ」
　ジュンは椅子を立て、腰を下ろしパソコンと向かい合ってインターネットを始める。
「…………」
　１分、２分、３分……
「…………」
　４分……４分３０秒……
「だああああ！！」
　５分過ぎたところで、背中に突き刺さるような視線に耐え切れず、ジュンは翠星石を見た。
「お前、いつまでそーやってるつもりなんだ！？」
「チビがお菓子くれるまでです！」
　翠星石は力強く言い切る。
　その翠星石の迫力に、ジュンは根負けした。
「……わかったわかった」
　ジュンは溜息をつくと、椅子から立ち上がり、ドアを開けた。
「下に行って、好きなだけ食って来い」
「最初からそうしやがれですぅ」
　勝ち誇った表情を浮かべながら、翠星石は足早に部屋を出て行く。
「やれやれ……」
　ジュンは椅子に座ると溜息をついた。
　ドアを閉めたところで、どうせ戻ってきた翠星石がガンガンやって開けさせるに決まってる。
　ならばいっそのこと開けっ放しにしといた方がいい。
　それよりも、わがままな翠星石が一刻も早くお帰りしてくれることを、ジュンは心から願わずはにいられなった。

「きゃー！！」
　突然、新たな騒動を予感させる翠星石の悲鳴がキッチンから聞こえてきた。
「な、なんだ！？」
　ジュンは慌てて立ち上がると、部屋を飛び出し階段を駆け下りてキッチンへと向かった。
「一体なにがあったんだ翠星石……うっ！？」
　そこでジュンが見たものは、思わず目を丸くしてしまうほどの、摩訶不思議な光景であった。
　翠星石は頭から乳白色のドロドロした液体をたらし、不快な表情を浮かべている。
　傍にはプラスチック製のお皿が落ちていた。
「ジュン〜！なんですかこれは！？甘くておいしいけどドロドロしてて気持ち悪いですぅ〜！！」
「何……って、コンデンスミルク？」
　ジュンは翠星石の頭についてる粘っこい液体を指につけ、それを舐めてみる。
　確かにそれはコンデンスミルクであった。
「いきなり降ってきたです！！トラップ仕掛けやがったですね！？何とかしやがれですぅ！！」
「んなわけないだろ。……ったく、しょうがない奴だな」
　ジュンは軽く溜息をつくと、翠星石を持ち上げた。
「わっ！？コラ、何するですか！？」
「とりあえず、そのベトベトどうにかしないといけないだろ？」
　ジュンはそのまま、翠星石を午前中使用していた庭にある子供用ビニールプールにつれて行った。
　プールには水が張られており、日の光を受けて水面がキラキラと輝いている。
「とりあえず、ここで洗えよ。その服、洗濯してきてやるから」
「へっ？」
「あ、で、でも、ちゃんとそこにある水着着ろよな。僕は後ろ向いてるからな！」
　ジュンはそれだけ言い残すと後ろを向いてしまった。
「変な奴です。私は人形なのに」
　翠星石は不思議そうに呟くと、衣服を脱いで小さな紺のスクール水着を着る。
「これで満足ですか？」
「あ、ああ」
　ジュンはどもりながら、翠星石の服とスカーフを持って、そのまま洗濯機へと直行した。

　洗濯機に洗濯物をツッコミ、まわしてから戻ってきたジュンを待っていたのは、翠星石のむくれた表情であった。
「遅い！！遅いです！！待ちくたびれたです！！」
「待ちくたびれたって……どうして？」
「…………」
　翠星石は黙って指を差す。その先にはシャワーのノズルがあった。
「シャワー？」
「オマエはシャワー係ですぅ！！」
「げーっ！またかよ！！」
「つべこべ言うなです！さっさとしやがれですぅ！！」
「はいはい。わかりましたわかりました」
　ジュンは溜息をついて、水道の蛇口をひねった。そしてシャワーのノズルを翠星石に向ける。
　瞬く間にシャワー水が翠星石に降りかかっていった。
「キャ♪つめたーい♪」
　翠星石ははしゃぎながら、プールの中を泳ぎ回った。

　プールから上がった翠星石は、ジュンの用意したＹシャツを着せられて、キッチンにつれてこられていた。
「しっかし、本当に何もないなー」
　ジュンは冷蔵庫を漁ったり、戸棚をあけたりして、食料探索に奔走している。
「オマエの家は一体どうなってるのですか！？お菓子くらい、ちゃんと置いときやがれですぅ！！」
　椅子に腰掛けた翠星石は、偉そうな態度でジュンに文句をいう。
「だああ、うるさいなぁー……仕方ない」
　ジュンは戸棚から小麦粉を取り出し、適当な量をボールの中へといれた。そしてそこに砂糖と水を入れ、泡だて器でかき混ぜる。
「何を作るのですか？」
「まぁ見てろって」
　しばらくかき混ぜると、今度はフライパンを用意し、強火でコンロにかけた。
　そしてバターを入れ、かき混ぜたものを、フライパンの中へと流し込む。
　それから箸で２、３度かき混ぜて、程よく焼きあがったところでフライ返しでひっくり返した。
　こちらもよく火を通し、焼きあがったところでそれをお皿に移す。
　最後に包丁で、その焼いたものを等分に切れ目を入れた。
「ほら、できたぞ」
「これ……なんですの？」
　翠星石は自分の目の前に置かれたものに、不思議な様子で首を傾げる。
「薄焼き」
「薄焼き？」
「食ってみればわかる」
「ふぅん……」
　翠星石は物珍しそうに薄焼きを手に取り、クンクンと匂いをかいで口に中へと運ぶ。
「…………」
「……どうだ？」
「……マズイ」
　ジュンの期待とは裏腹に、翠星石は情け容赦ない言葉を浴びせる。
「こーんなのチットもおいしくないです。この気品溢れる翠星石様には相応しくない食べ物です」
「お前のどこが気品溢れてるんだよ？」
「まぁ、チビにしては上出来かもしれませんけど。何も無いよりはマシなのですから」
　そういいつつ、翠星石はバクバクと口の中に薄焼きを運んでいく。
「……お前、本当はおいしいんだろ？」
「ぜーんぜん」
「素直じゃないなぁ……」
　翠星石の態度に、ジュンは溜息をつく。
「ただいまー」
　と、そこへ出かけていたノリ達が帰ってきた。
「ただいまジュンくん。お腹すいてない？」
　手荷物をいっぱい抱えて、キッチンへと入ってきたノリは、そこで翠星石の姿を見つけた。
「まぁ。翠星石ちゃんも遊びに来てたのね」
　ノリは手荷物をテーブルの上へと置いた。バスケットの中から真紅と雛苺が顔を覗かせ、翠星石の食べているものに、目が留まる。
「翠星石、何を食べてるの？」
「これですか？これは……」
　翠星石は一呼吸置いてニヤリと笑った。
「ジュンが、私のために作ってくれたおやつです」
　そして最後の一切れをパクッと食べてしまう。
「えー！？いいないいなー！！」
　雛苺がバスケットからはいだし、翠星石の元へと駆け寄った。
「ジュン、一体どういうこと！？わかるように説明してちょうだい！！」
　真紅もバスケットから出てきて、ジュンに詰め寄る。
「あなたは私の家来でしょ！？それなのに、何で翠星石にご馳走なんか作るの！？」
「いやぁ、ご馳走ってわけじゃ……」
「言い訳は無用！！ジュン、翠星石にご馳走したものをさっさと作りなさい！！」
「そうよそうよ。翠星石ばっかりズルイもーん！」
「ズルクなんかないですぅ！！どっかに出かけてていなかった真紅やチビチビ達がいけないんです」
「ちょっと翠星石……調子に乗るんじゃなくてよ？ジュンは、私の家来なんですからね」
「雛だってご馳走食べたいもーん！」
「だまらっしゃいですぅ！！」
　真紅、雛苺と翠星石の間に、激しい火花が飛び散る。
「あらあら。みんな元気ねぇ。それじゃあ今日の夕ご飯は、はなまるハンバーグにでもしましょうか」
　ノリはのん気なことをいいながら、エプロンを身につける。
「……やっぱり無視すればよかった……」
　ジュンはこれから待ち受けるであろう大騒動に、頭が痛くなるばかりであった。