「ゴホッ、ゴホッ……」
　将悟は咳き込みながら腋に入れている体温計を取り出すと、そこに表示されている数値を確認した。
「３８．２℃……か……」
　ふぅ、とため息をつき、体温計を箱の中に戻すと、それをテーブルの上へと置く。
「流石に最近は無茶しすぎたかな……」
　将悟は天井を見つめながら、こうなった原因をいろいろと思い浮かべた。
「……ダメだ。思い当たることが多すぎる」
　しかし考えるのを途中で放棄し、瞼を閉じる。
「……ふぅ……」
　将悟は再度ため息をつくと、額に乗っているタオルに手を当てた。
　先ほど変えたばかりなのに、もう生温かい。
　将悟は眼を開けると、時計を見た。時刻は午前１０時を表示している。
「タオル変えた後、ちょっと眠るかな……」
　将悟が目を開けてタオル取ろうとした、その時。
「ピンポーン」
　不意に玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「はーい……」
　将悟はタオルを取って枕元に置くと、ゆっくりとした動作で起き上がり、ベッドから抜け出した。
　そしておぼつかない足取りで、玄関へと行く。
「どちら様ですか？」
　声をかけながら、玄関のドアを開ける。
　するとそこには、帽子をかぶり、制服の上にマントを羽織った芽依が、紙袋を抱えて立っていた。
「よっ。帝野。調子はどうだ？」
「嵯峨良先輩……どうしたんですか一体……？」
「ちょっとお見舞いにな。あがってもいいか？」
「え、ええ……」
「それじゃあ、お邪魔するぞ」
　芽依はコクンと一例をすると、将悟の部屋へと足を踏み入れた。
「ここが帝野の部屋かぁ。思ったよりも片付いてるな」
「どういう意味ですかそれは？」
「言葉通りの意味だ。私はてっきり、脱ぎ捨てた服やムフフな本が散乱していると思ったんだが」
「してませんって……ゴホゴホっ!」
　否定しかけた将悟は、思わず咳き込む。
「だ、大丈夫か？」
　芽依は心配そうに将悟を見た。
「す、すみません」
　将悟はふらつく足取りでベッドに座ると、そのまま足をスライドさせて仰向けの体制になった。
「横になってないと、辛くって……」
「確かに顔が赤いな……どれ、ちょっと見せてみろ」
「えっ？」
　芽依は紙袋をテーブルの上に置くと、おもむろに、眼鏡を外して顔を将悟に近づけた。
　そして、自らの額を将悟に額に接触させる。
「ふむ……確かに熱いな……」
「あ、あの、先輩……」
「どうした？」
「そ、その、近いんですけど……」
　唇があと数センチで接触するほどの至近距離に、将悟は鼓動を高鳴らせる。
　しかし、芽依は瞳を潤ませながら、将悟が耳を疑うような言葉を口にした。
「なあ、帝野。風邪は人にうつすと、治りが早いらしいぞ」
「はっ？」
「だから、私がお前の風邪をもらってやる」
「ええっ！？」
　目を大きく見開く将悟の視界に、芽依の唇がどんどん迫ってくる。
　将悟の鼓動は一気に高鳴りを増した。
「せ、先輩……！」
「……冗談だ」
　しかし芽依は顔を遠ざけると、クスッと笑って眼鏡をかけた。
（じょ、冗談だったのか……）
　将悟はバクバクと高鳴る鼓動を治めるかのように、胸に掌を当てて深呼吸をする。
「ところで帝野、お前すごい汗をかいているな？」
「えっ？」
「ダメだぞ。風邪の時は、こまめな着替えと水分補給が必要なんだから」
　芽依はそう言って衣装ダンスから、タオルと下着とパジャマを取り出す。
「ホラ、脱げ」
「はい？」
「拒否するなら、私が強制的に着替えさせる」
「わ、わかりました」
　将悟はベッドから起き上がって芽依から着替え一式を受け取ると、うやうやしく芽依を見た。
「その……着替えるので、出て行っていただけますか？」
「なんだ？恥ずかしいのか？」
「そりゃ、まあ……」
「仕方のない奴だ」
　芽依は、後ろを向くと足早にバスルームへと移動する。
「着替え終わったら言うんだぞー。お前の脱いだもの、洗濯するから」
「えっ？そ、そこまでしていただかなくても……」
「着替え、手伝うか？」
「わ、わかりました。洗濯お願いします」
　将悟は渋々了承の返答をすると、着ているものを全て脱いで、タオルで体中の汗を拭いた。そして、芽依の用意してくれた着替えに袖を通す。
「着替え終わりました」
「うむ」
　バスルームから出てきた芽依は、将悟から洗濯ものを受け取ると、それを持ってバスルームの方へと向かい、洗濯機の中へと入れた。
　そして、将悟の元へと戻ってくる。
「時に帝野、腹は減っていないか？」
「えっ？」
「実はな、お前にお見舞いを持ってきた」
　芽依はそう言って、紙袋からハート型の容器に入ったプリンとプラスチックのスプーンを取り出し、テーブルの上に置いた。
「やっぱり病気の時は、甘いものが一番だ。帝野にはいつも世話になってるから、今日は特別に私が作ってきてやったぞ」
「あ、ありがとうございます」
　将悟はとりあえずお礼を述べる。
　熱のせいで食欲はあまりなかったのだが、それを言うのは失礼かと思い、黙っていることにした。
「それじゃあ、さっそくいただきます」
「まぁ、待て」
　プリンの容器を持とうとした将悟を、芽依が止める。
「折角だから、食べさせてやろう」
「ええっ！？」
　将悟は驚きの声を上げるが、芽依はそんなことをお構いなしに、容器を持ってスプーンでプリンをすくう。
「女の子に甘えるのは、病人の特権だからな」
「い、いいですって！そんな特権いりませんから！」
「もう、お兄ちゃんってば照れ屋さんなんだから。はい、アーン」
　芽依は甘えるような声を出して、スプーンを将悟に近づける。
「お兄ちゃんは、芽依のこと、嫌い？」
　そして上目遣いで、瞳を潤ませながら将悟を見る。
　もはや将悟は観念するしかなかった。
「ア、アーン」
　将悟は大きく口を開ける。
　そしてその中へ芽依はスプーンを運んだ。
　パクッ
　ゆっくりと口を閉じると、スプーンが抜かれる。
　モグモグ
　口をゆっくりと動かす。かろうじて甘いことだけはわかった。
「……どう？おいしい？」
「ああ。とってもおいしいよ」
　将悟は笑顔を作る。
「わーい。だから将悟お兄ちゃん、だーいすき」
　芽依もにっこりと笑うと、スプーンを容器の中に入れて、テーブルの上に置いた。
「さて……と。サービスはここまでだ。その洗濯物洗ってこないとな。ついでにタオルも絞ってきてやろう」
　芽依は立ち上がって、冷蔵庫の前まで行くと、紙袋に入っていたプリンとスプーンを全て取り出し、冷蔵庫の中へと入れた。
　そして、将悟のところへと戻ってくると、紙袋を丸めてごみ箱へ捨て、先程まで将悟が着ていた衣服とタオルを持つ。
「す、すみません。先輩にこんなことさせてしまって」
「気にするな。困ったときはお互い様だ」
　芽依はそのままバスルームの方へと向かう。
「……ふぅ……」
　将悟はため息をつくと、ベッドの上へと上がり、そのまま仰向けの体制で寝そべった。
　熱のせいか頭がボーっとする。
　視界に入ってくるのは、ゆがんだ天井。そして、瞳を潤ませながら迫ってくる芽依の幻影――
「……ふぅ……」
　将悟は再度ため息をつくと、瞼を閉じた。
　ゴウン、ゴウンと洗濯機が回る音が聞こえてくる。
（なんだか眠くなってきたな……）
　将悟の意識が、段々と夢の世界に堕ちていく。
　不意に将悟の額に冷たいものが乗せられた。
「どうだ？気持ちいいか？タオル絞ってきたんだが、ちょっと絞りすぎたかもしれん」
「いえ。そんなことないです。ありがとうございます、せんぱ……いっ！？」
　そして将悟は、大きく目を見開いた。
　芽依の姿は先程の魔女ルックではなく、何故か裸にＹシャツをまとっただけの姿であった。
「なななな、なんて格好してるんですか！」
　将悟は慌てて態勢を仰向けから横に変え、目を背けた。
「ああ、これか？お前のだけ洗うのもアレだから、一緒に私のも洗濯させてもらった。ただ、流石に裸でいるというわけにもいかないから、お前のＹシャツを借りさせてもらったぞ」
　芽依は恥ずかしそうにそう答えると、将悟の背後に寝そべった。
「どうだ？なかなか萌えるシチュエーションだろ？萌えすぎて萌え死にしそうか？」
「せ、先輩、何してるんですか！！」
「何って……添い寝だが？」
　将悟の言葉に、芽依は平然と答える。
「そ、添い寝って……」
「なんだ？鶴眞や神凪はよくて、私はダメなのか？」
「えっ！？」
「二人から聞いたぞ？この前、二人で『半裸』でお前に添い寝したと」
「あ、いや、それはですね。あの時はなんていうか、その……」
　半裸、という言葉を強調する芽依に対して、将悟はしどろもどろになりながら、言葉を探す。
　その反応を見て、芽依はクスッと笑った。
「まったく、帝野の女たらし癖はどうしようもないな」
「で、ですから、違うんですって！あの時は。心乃枝と雅が勝手に……！」
「『心乃枝』と『雅』が勝手に……か……」
　芽依の声のトーンが少し低くなる。
（あ、あれ……？）
　将悟はその意外な反応に、少し戸惑いを覚えた。
「先輩……？」
「芽依」
「えっ？」
「芽依って呼んでくれないと、お前から離れない」
「ええっ！？」
　将悟は驚きの声を上げた。
「せ、先輩。こんな時に冗談は辞めてください」
「ほほう？まだそんなこと言う元気が残ってるのか。そんな生意気な奴にはこうだ」
　芽依は将悟に抱きつき、自らの胸を彼の背中に押しつけた。
「せ、先輩！？」
「どうだ？呼ぶ気になったか？」
「わ、わかりましたから。離れてください、嵯峨良先輩！」
「『芽依』だ」
　芽依はさらに自分の胸を押し付ける。
「わ、わかりました！芽依先輩！！」
　将悟は残っていたわずかな理性をかき集めて、芽依の名前を呼んだ。
「……将悟……」
　芽依は恥ずかしそうに呟くと、将悟から離れる。
（ふぅ〜……なんとか理性を失わずに済んだ）
　背中に残った二つの幸せな感触を思い返しながら、芽依に声をかけた。
「芽依先輩」
　しかし、返事はない。
「芽依先輩？」
　将悟は再度声をかける。
「……スース―……」
　しかし、代わりに返ってきたのは、静かな寝息であった。
「先輩……寝ちゃったんですか？」
「……スース―……」
　いくら問いかけても、寝息しか聞こえてこない。
（……参ったなぁ……）
　将悟はため息をついた。同時に、強烈な睡魔が襲ってくる。
（……眠い……）
　そして将悟は、そのまま夢の世界へと堕ちて行った。