蝉の大合唱が町中を支配し、相変わらず太陽の強烈な光が地表を照りつける、長い夏休みもそろそろ終盤に差し掛かったある夏の日。
　不覚にも風邪を引いてしまった俺は、一人家で寝込んでいた。
　俗に『夏風邪はバカが引くもの』というが、まさかハルヒに感化されて俺までバカになってしまったとは思いたくない。
　もっとも、そんなことをハルヒに言った日には、全力で否定された上に、最悪無理難題を吹っかけられるのが関の山なんだが。
　だから、俺はこう思うことにする。
　これは、神様がくれた『束の間の休息』、なんだと。
　最近ハルヒに連れまわされっぱなしだった俺は、一人の時間がほしいと思っていたのも事実だ。
　まぁ、だからといって、こんな形でプレゼントをくれるとは、神様って奴も意地悪だぜ。
　それに「一人の時間」というのも、妹が友達の家に遊びに行ってから、あいつが尋ねてくるまでわずかな時間しか達成されなかったわけだし。
　今更ぼやいても仕方ない事なんだが。

　コンコン

　そんなことを考えていると、部屋のドアがノックする音が。
「入っても大丈夫だぞ」
　俺が声をかけると、やや間を置いて戸が開いた。
　そして現れたのは、厚手の手袋に、土鍋を持った、エプロン姿の長門だ。
　これが朝比奈さんだったら、俺はどんなに嬉しいことだったろう。
　きっと文字通り昇天してしまったに違いない。可憐な朝比奈さんのエプロン姿を前に、俺はそうなる自信がある！
　まぁでも、ハルヒじゃなかっただけでも、良しとしなければいけないか。
　長門は部屋に入ってくると、机の上に鍋式を置き、その上に土鍋を置いた。
「すまねえなぁ。料理まで作ってもらっちまって」
　俺が長門に声をかけると、長門は無言のまま俺をじっと見つめた。
　そしておもむろにしゃがみこむと、なんと俺の額に自らの額を押し当てたではないか。
「！？」
　長門のひんやりした額と、顔の近さに、思わず心臓が高鳴る。
　少し間を置いて長門は額を離し、やはり先程と同じように俺を見つめた。
「心拍数増大。体温上昇を確認。分析の結果、夏風邪と思われる。安静にしていた方がいい」
「あ、あのなぁ。あんなことされたら、誰だってそうなるっての」
　俺は起き上がって、溜息をつく。
　時々長門の突拍子もない行動には驚かされることがあるが、今日のはいつにも増して予測不能な行動だ。
　いきなりあんなことして、恥ずかしくないのかこいつ？
　しかし、そんな長門はというと、相変わらず無表情のままだ。
　こいつとの付き合いは結構長くなるが、相変わらず何を考えているかはよくわからない。
　今日来たのも、ハルヒから言われてきたそうで、ある意味ハルヒから送り込まれた刺客、と言っても過言ではない。朝比奈さんのような刺客だったら大歓迎なんだが。
　まぁでも、長門だったらハルヒや朝比奈さんのように余計な気を使わなくて済むし、気が楽ではあるんだが。
「ところで、そのエプロンどうしたんだ？まさか家から持ってきたのか？」
　俺の質問に、長門は首を横に振る。
「あの人が、持たせてくれた」
「ハルヒが？」
　俺の言葉に、長門は今度はコクンと頷く。
「この姿の方が、あなたが喜ぶって」
「ハルヒの奴……」
　長門に何てこと吹き込むんだ。制服姿にエプロンで、何故俺が喜ぶと？
　まったく意味がわからん。
　まぁ、真に受ける長門も長門なんだが。
　そんな長門は、まるで何かを待っているかのように、俺のことを無言のままじっと見つめる。
「え、えっと、その、なんだ。よく似合っててかわいいな」
　なんだか感想を欲しがっているような態度だったので、とりあえず俺が感想を述べると、長門は無表情のまま呟いた。
「そう……」
　そして俺の右手をおもむろに掴むと、なんと自分の胸へと押し当てた。
「うぉっ！？」
　長門の突然の行為に、俺は思わず間抜けな声を上げる。
「心拍数の増大、精神の高揚。体温の上昇に、激しい感情の乱れが見られる。あなたはロリコンだ」
「ろ、ロリコンじゃねえ！」
　俺は慌てて長門から手を離し、必死に弁解する。
「な、長門。ハルヒから何を吹き込まれたかは知らんが、俺はそんな特殊な性癖を持ち合わせちゃいないからな。ドキドキしているのは、お前が突然そんな行動をとったからであって……」
「そう……」
　長門は先程と同じように呟く。だが、その表情はどこか寂しげだ。
　何だその残念そうな呟きは？
　俺がそう思っていると、長門が持ってきた土鍋の蓋を開けた。
　中から湯気が立ち上り、お粥が姿を現す。
　確かに病気で寝込んでいる時には最適の食べ物ではあるんだが、このクソ暑い中、見ているだけで気が滅入りそうだ。
　しかし、折角作ってくれたんだ。文句を言うわけにもいくまい。
「うまそうだな」
　俺が感想を述べると、長門は無言のまま、お粥を茶碗によそった。
　そして、スプーンにお粥を盛って、俺に差し出す。
「口を開けて」
「い、いいよ。自分で食べられるから」
「口を開けて」
　俺が遠慮すると、長門は再度同じ言葉を口にして、俺をジッと見つめる。
　こいつ、結構頑固なところがあるからなぁ……
　こうなった長門は、俺が口を開けるまでスプーンを持ったままでいるだろう。
「……わかったよ」
　俺は観念して、おとなしく口を開けることにした。
「あーん」
　長門は無言のまま、スプーンを俺の口の中に運ぶ。
　俺は口を閉じ、お粥をゆっくり味わう。
　長門の作ってくれたお粥は、少し薄い塩味だった。
　何の味気もない料理を作っていたあのころと比べれば、少しは進歩したと言うべきだろうか。それに、今はこれくらいの味の方がちょうどいいし。
「うまい」
　俺は率直な感想を長門に述べる。
　すると長門は、持っていたスプーンを茶碗の中に入れて、それを机の上に置いた。
「私は、あなたの病気を治す方法を知っている」
「はぁっ？」
　突然の言葉に、俺は首を傾げる。
「えっと……俺の風邪を治す方法……ってことか？」
　コクンと、長門は頷く。
　風邪なんて寝てれば治ると思うんだが……
　でもまぁ、すぐにでも治るなら、ここはひとつ長門に頼んでみるとするか。
「それじゃあ、その方法って奴を、お願いできるか？」
　俺の言葉に長門は再度コクン、と頷く。
「目を閉じて」
「へっ？」
「目を閉じて」
「あ、ああ……」
　再度繰り返される長門の言葉に、俺はそのまま目を閉じる。
　長門の奴、一体何しようってんだ？まさか、腕に噛みついて直接治療薬を体内に流し込むとか？
　そんなことを考えていた、次の瞬間。
　何やら温かく、柔らかいものが俺の唇に接触した。
「！？」
　俺は慌てて目を開ける。すると長門は、先程よりもかなり近い位置で俺を見つめていた。
「お、お前、一体何を……」
　困惑する俺の言葉に、長門は人差し指を自分の唇に当てる。
「禁則事項」
　そう言葉を発した長門の表情が、なんだか微笑んだような気がした。