一体ナニが悲しくてこんなことをせねばならんのだろう……
　心では理解しつつも、やはり納得できない理不尽な状況に巻き込まれている俺は、お盆を片手に部屋のドアをノックした。
「入るぞー」
　一応断わってからドアを開け、部屋の中へと入る。
　まったく、何で自分の部屋に入るのにこんなに気をつかわにゃならんのだ……
　心の中で文句を言いつつ、ドアを閉める。
「ゼェ……ゼェ……」
　苦しそうな息遣いが、否応無しに俺の耳に入ってくる。
「大丈夫か？」
　お盆を机の上に置くと、俺はその息遣いの主――俺のベッドを占領しているもも子の表情を見た。
「ゼェ……ゼェ……」
　もも子は額に大汗を浮かべながら、苦しそうに寝息を立てている。
　まぁ、無理もないか。あれだけ熱があればな……
　俺はもも子の額にのっているタオルを取ると、代わりに自分の掌を当てた。
　熱い。
　まるで水が沸騰しそうになるくらい、もも子の額は熱かった。
「ホント世話の焼ける奴だな……」
　俺はタオルを氷水の入った洗面器の中に入れると、既に氷水につけて冷やしておいたタオルを洗面器の中から取り出し、少し柔らかめに絞ってもも子の額へと乗せた。
「……んっ……」
　うっすらともも子の目が開く。
　そして俺と目が合った。
「……あっ……孝子殿……」
「悪い。起こしちゃったか？」
「いえ……」
　もも子はボーっとした表情で俺のことを見ていたが、額に乗せられているタオルに手を当てると、おずおずと口を開いた。
「あの……ここは……」
「俺の部屋だ」
「孝子殿の……？」
「『どうして？』って言いたいんだろ？いいか、よく聞けよ。お前はな……」
　俺は意識が朦朧としているだろうと思われるもも子に、ことの顛末を話してやった。
　あれは今朝の出来事だ。
　俺はいつものようにもも子の作ってくれた朝食を食べていたのだが、その時から既にもも子の様子はいつもと違っていた。
　顔が赤くなっており、動作もどことなくふらついている。
　だが俺は、どうせ修行のし過ぎか夜更かしでもしたんだろう、と軽く考えていた。
　だから準備を整えて、学校に行くために、いつものように玄関からもも子を呼んだ。
　そしたらもも子の奴は、なんと制服姿ではなく寝巻き姿で現れたのだ。しかも俺の寝巻きを着て。
　一体何の冗談だと思った瞬間、もも子は俺の目の前で倒れたのだ。
　流石に俺もあの時は焦ったね。
　もも子の名前を呼んでも反応せず、苦しそうな息遣いに凄い汗で、咳き込みながらうわ言のように「孝子殿……孝子殿……」って俺の名前を連呼してたから。
　俺も最初はもも子を自分の部屋へと連れて行こうと思ったが、考え直して俺の部屋へと連れて行き、ベッドに寝かせた。
　すると不思議なことに、苦しさが少し和らいだようで、咳き込む回数も少なくなった。
　それから俺は学校へ休む連絡を入れ、洗面器の中にタオル２枚と氷水をぶち込み、冷やした１枚をもも子の額へと乗せ、氷枕をもも子の頭の下に敷いたのである。
　で、薬局に風邪薬を買いに行き、それからお昼を作って現在に至っている、と。
「そうだったのですか……」
　もも子はシュンとした様子で目を閉じた。
「私って、駄目な女の子ですね……孝子殿に迷惑をかけてばっかり……これじゃあ孝子殿の妻失格ですね」
「…………」
　どさくさにまぎれて何言ってるんだコイツは？
　俺はお前と結婚する気なんかない。
　しかしいつになくしおらしいもも子の姿をみて、俺は呟きを心の中だけにとどめて、代わりに持ってきた土鍋のふたを取った。
「ほら、とりあえずおかゆでも食って。少しでも体力付けないと」
「……食欲……ないです……」
「そんなこと言って。薬飲まなくちゃ、よくなるものもよくならないぞ？俺が食べさせてやるから、ほら起きて」
「はい……」
　もも子はゆっくりとした動作で身を起こす。
　いつもなら「俺が食べさせる」という言葉を聞いただけで過剰反応を起こすはずだ。
　もも子のやつ、相当具合が悪いみたいだな……
　俺は茶碗におかゆをよそって、スプーン一匙分を掬い上げた。
「ほら、口をあけろ」
「はい……」
　視点が定まらないような目つきで、ぼんやりした表情のもも子は、口を小さく開ける。
　俺がその中へスプーンをいれると、もも子はゆっくりとした動作でおかゆを食べた。
　しかし、食べ終わるとまるで消え入りそうな声で呟いた。
「……もう結構です。ご馳走様でした……」
「なんだ？もう食べないのか……」
「はい……気分が優れないので……」
「そっか……」
　俺はスプーンと茶碗を置くと、薬と水の入ったコップをもも子に手渡す。
「…………」
　もも子はゆっくりとした動作で薬を飲むと、コップを俺に手渡してから再び横になった。
「孝子殿……わがまま言ってもいいですか？」
「なんだ？言ってみろ」
「手を……繋いでいただけませんか？」
「手を？」
「はい……なんだかとっても不安で……」
「……わかった」
　俺はもも子の手を握ってやる。
「ありがとうございます……」
　もも子は少し安心した表情を見せ、ゆっくりと瞳を閉じた。
　こんなに弱々しい桃子を見るのは初めてだ。
　やっぱり病気と言うものは、ここまで人を変えるものなのだろうか。
「……スー……スー」
　しばらくしないうちに、もも子の寝息が聞こえてくる。
　しかしその表情は、どこか苦しそうだ。
「孝子殿……孝子殿……」
　時折、うわ言のように俺の名前を呟く。
「……しょうがない奴だな」
　俺はもも子の手を離すと、ゆっくりともも子に顔を近づけた。
「こんなことしてやるの、今回だけだからな」
　風邪は人にうつすと治るという。本当かどうかはしらんが。
　でも、これは普段もも子が望んでることだから、少しくらいは、もも子を元気付けることはできるだろう。
　後で知ったら怒るかもしれないけど。
「本当に、今回だけだからな」
　俺はもも子の唇に、自分の唇を重ね合わせた。
「んっ……」
　唇を離すと、そこには先程よりも穏やかな寝顔を浮かべているもも子の表情があった。
「……孝子殿……大好き……」
　まるで起きているような寝言を呟く。
「本当に、今回だけだからな」
　俺はもも子の頬を撫でると、そのまま部屋を後にした。