紅薔薇のつぼみの憂鬱

「ふぅ……」
　祐巳は読み終えた本を閉じて机の上に置くと、軽く溜息をついた。
　今まで抑えていた葛藤や衝動が、まるで泉のように心の奥底から湧き上がってきて、どんどん零れていく。
　お姉さまとのデート――
　白い日傘を差しながら二人で歩く、木漏れ日の零れる公園。
　お姉さまとお揃いの服装で、一緒にジェットコースターや観覧車に乗ったりする遊園地。
　ううん。思い切って、海に行くなんていうのもいいかもしれない。だってそうすれば、お姉さまの――
（や、やだ！私ってば、なんてはしたないこと考えてるんだろう！！）
　祐巳は慌てて心の中で懺悔をした。畏れ多くも祥子さまの水着姿を思い浮かべるなんて、なんて罰当たりな妹なんだろう。
（マリア様、どうぞお許しください！）
　もし隣に由乃さんがいたら、間違いなく祐巳は冷やかされるだろうけど。
　また祥子お姉さまのことを考えていたのかって。百面相してたよって。
　でも祐巳の隣には、幸いなことに誰もいない。
　だってここは、薔薇の館じゃなくて図書館だから。
　放課後、しかももうすぐ閉館時間ということもあって、生徒の姿はまばらだ。
　こんな祐巳の姿を見られたら、それはそれで大変だけど。
　一応紅薔薇のつぼみという立場上、もっときりっと引き締めるところは引き締めなければいけないって言うことはわかってるんだけど。
　それでも、祐巳の心はここにあらずといった感じで、結構浮かれていた。
　季節は夏。
　だから、春ボケと言うわけでは決してない。夏ボケと言うわけでも決してない。
　祐巳の頭の中は、祥子お姉さまとのデートのことで一杯だった。
　遊園地は一緒に行く約束をしてあるけれど、それが実現される様子は一向になかった。
　おかげで祐巳の心に、大好きなお姉さまとのデートへの憧れと楽しみが、積もりに積もっていく。
　今日は図書館に用があったので、そのついでに本を読んだけれど、ますますお姉さまとのデートへの想いが募っていってしまった。
　まぁ、紀行文（恋愛小説）なんて読んだ祐巳がいけないんだけれど。
（お姉さま……）
　祐巳は本を大切そうに、両手を交差してキュッと胸元で抱えると、瞳を閉じた。
　カシャ！
　不意に、前方からシャッター音がした。
（もぅ……また蔦子さんね……）
　せっかくお姉さまのことを考えていたのに、何だか水を差されたような気がして、祐巳はちょっとだけ不機嫌になった。
「あのね、つた……」
　そして祐巳は目を開けて文句を言おうとしたけれど、途中から口をパクパクさせて言葉をなくしてしまった。
　だってそこにいたのは――
「どうしたの祐巳？まるで私がオバケみたいじゃないの」
　カシャ
　またもやシャッターがきられる。
「わ、わわわ！！こんな表情まで写真を撮らないでください！お姉さまぁ！」
　祐巳は慌てて両手をぶんぶんと顔の前で振ると、そのまま顔を隠してしまった。
「あら？せっかくいい表情をしていたのに。残念ね」
　祥子さまは悪戯っぽく笑いながら、ファインダーから顔を上げる。
「そうそう。紅薔薇さまのおっしゃる通り。とってもいい表情してたよ、紅薔薇のつぼみ」
　その横で蔦子さんがおかしそうに笑ってる。
「ごめんなさいね。蔦子さんに頼んで、カメラを貸してもらったのよ」
　どうして？って祐巳が聞く前に、祥子さまが答えてくれた。
「紅薔薇さまは愛しい妹の写真が欲しいんだって。だから私のカメラをお使いいただいたってわけ」
　蔦子さんが補足説明をしてくれる。
　つまり、祥子さまは祐巳のスナップが欲しかったから蔦子さんにカメラを貸してもらって、祐巳の写真を撮った、と。
　ごくわかりやすいことではあったけど、それは祐巳にとっても、幸せな気持ちをもたらしてくれた。
　自分はこんなにお姉さまに想われてるんだなって。
　自分のことをお姉さまはとっても大切にしてくれてるんだって。
「あのお姉さま。どうせなら、一緒に撮りませんか？」
「え？……ええ。祐巳がそうしてくれるなら」
　祥子さまはにこやかに微笑まれると、「お願い」ってカメラを蔦子さんに渡して、本棚の前へと移動した。
　祐巳も席から立ち上がると、祥子さまのお隣へと移動する。
「はーい。それじゃあ二人とも笑ってー」
　蔦子さんは本領発揮といった感じで、ファインダーを覗き込む。
　祐巳は甘えるように、祥子様に寄りかかった。
「もぅ……しょうがない子ね……」
　そう言いながらも、祥子さまはとても嬉しそうに微笑まれる。
　だって今から撮る写真は、祐巳や祥子さまの宝物になるかもしれない写真だから。
「はい、それじゃあ撮りますよー。はい、チーズ」
　カシャ
　静かな図書館に、機械的なシャッター音が響き渡ったのだった。