それは昨日のお昼頃のことでした。
　並木通りを散策していたわたしは、ふと見覚えのある車が路地に止まっているのを見つけました。
「あれ？」
　わたしはその車に近づいてナンバーを見ると、やはり見慣れたナンバーです。
「ひょっとして……」
　わたしはその車が門に横付けされるように止まっている家の表札を見ますと、『木幡』という表札がかかっています。
　わたしは確信しました。
　ここは間違いなく木幡先生のお宅です。今まで知りませんでしたが、こんなところにあったんですね。
「あの、なにか家に用ですか？」
「えっ？」
　突然声をかけられたわたしは、ドキッとしながら後ろを振り返りました。
　流れるような長く美しい黒髪のキレイな女性が立っています。
　どどど、どうしましょう。このままではまるで変質者です。
「あああ、あの、わ、わたし」
「知ってる人のお家だったので気になって来てみたんです」と言おうとしたのですが、動揺してしまいうまく言葉が出てきません。
　これではますます不審者っぽく見られてしまいます。
　落ち着かないと、落ち着かないと……
「あら？あなた、ひょっとして……水無川蜜柑さん？」
「え？どうして……わたしの名前を？」
　キョトンとしたわたしを見て、その女性はクスクスと優しく笑い出しました。
「あ、あの……」
「あら、ごめんなさい。あまりにもイメージ通りのカワイイ女の子だったもので、つい、ね。気を悪くしないでちょうだい」
「い、イメージ通り？」
「ええ。主人がいつもあなたのこと話すものだから。なんだか初めてあった気がしなくて」
「主人？ひょ、ひょっとして……」
「はい。私、木幡悠の家内の桜と申します」
「ええええええっ！？」
　あまりにも衝撃的な事実を知らされたので声も出ません。
　木幡先生に奥さんがいることは知っていましたが、こんなにキレイな人とは知りませんでした。
　世の中って、不思議なことだらけです。
　……って、こんなこと思うと先生に失礼ですよね。
「あ、えっと、その……」
「うふふ。言いわよ。主人ってああいう性格だから誤解されやすいの」
「ご、誤解だなんて、そんな！わたし、木幡先生はとっても立派で優しい先生だと」
「ありがと。……そうだ。家に寄ってかない？せっかくここまできたんだし」
「えええっ！？そ、そんな恐れ多いことわたしにはとても」
「別に遠慮しなくっていいわよ。ほら」
「えええ、えっと……あ、あの……」
　わたしは桜さんに促されるまま、先生のお宅に足を踏み入れました。
「お、おじゃまします」
　小さな声で挨拶をし、深々と頭を下げます。
　先生のお宅にあがることになるなんて思っても見なかったので、なんだか緊張してしまいます。
「おう、おかえり。ん？なんだ？」
　居間でしょうか？部屋から出てきた先生は見なれない客の顔を見つけて、キョトンとしてました。
「なんだじゃないでしょ？自分の教え子に向かって」
　桜さんは少し怒ったような顔を見せます。
「あ、あの、わたし……」
「あ、いいのよ。気にしなくっても」
　なんだか気まずくなったような気がしたので、わたしは早々に退散しようとしたのですが、桜さんは心配しないでといった感じでニッコリと微笑みました。
「まったく。悠クンがそんなんだからこの子怖がってるじゃないの」
「ああ、すまんすまん。ゆっくりしていっていいぞ」
　先生はいつものようにぼさぼさの髪の毛をポリポリとかきながら笑います。
　それにしても……
　いつもと違うのは先生の着ている服が白衣ではなく普段着ということなんですが、なんだか新鮮な感じがします。
「ホラ、そんなところ突っ立ってないでこっちにでも来て座ってろ。今お茶出させるから」
「は、はい」
　わたしは先生の後をとことことついて行き、居間らしきところで、待つことになりました。
　緊張の連続です。でも新しい発見もいくつかしました。
　それは先生が、奥さんから「悠クン」って呼ばれていることです。
　あの木幡先生が……学校の生活からは全く想像がつきません。はっちゃんやわかちゃんがこんなことを知ったら「黙ってるから昼飯おごれ」くらいなことは言いそうです。
　クスッ。笑ってはいけないんですが、なんだかおかしいです。
「はい、おまたせしました。ゆっくりしていってね」
　桜さんが冷たい麦茶の入った湯のみを三つ持ってきて、テーブルの上に置きました。
「ど、どうもすみません」
　わたしは恐縮な思いで頭を下げます。
「いいのよ気にしなくって。ゆっくりしていってね」
「ああ。お前は普段からかしこまり過ぎだからな。休日くらいもっとしゃんとしなくちゃダメだぞ。それにしても、まさか遊びにくるとは思わなかったぞ」
「わ、わたしもこうなるなんて思いませんでした」
　先生の言葉に、わたしはさらに恐縮してしまいました。リラックスしろと言われてもすぐにできるものではありません。
「そういえば悠クン、外に車止まってたけど、車庫に入れないの？」
「ん？あれか？ちょっとタバコ買いにすぐに出るつもりだったから。財布忘れてとりに戻ったらお前達が帰って来たんだよ」
「もう！悠クン、３日前に禁煙の誓いを立てたばっかりじゃない！もう忘れちゃったの？」
「え、い、いや、あの、その、なんだ。あっ！車を車庫に入れてこないとな」
　怒った桜さんの顔を見て、先生は逃げるように部屋から出ていきました。
　先生のあんな慌てた姿、今まで見たことがありません。
「ごめんなさいね。悠クン、学校でタバコ吸ったりしてない？」
「え、え、えっと、そんなことはないですよ。わたしが研究室に行くとすぐに消しますし」
「そう、吸ってるんだ。やっぱりね」
「あっ……」
　わたしの回答を聞くと、桜さんは呆れかえったように溜息をつきました。
　先生ごめんなさい！
　つい口がすべって、本当のことを言ってしまいました。
　本当に、ごめんなさい！！
「あ、あの、わたし……」
「別に気にしなくってもいいのよ。蜜柑ちゃんが悪いわけじゃないんだから」
「は、はぁ……」
「ね、ね、それより悠クンの学校での生活のこと聞かせて欲しいんだけど」
「せ、先生の学校での生活、ですか？」
「うん。ほら、悠クンってあんな性格じゃない？どんな生活送ってるのか気になって」
「そうですね……」
「あーっ！！」
　わたしが語り出そうとした時、外から大きな声が聞えてきました。
　そして、玄関の戸が開く音がするとドタドタドタ、と荒々しい足音が聞えてきます。
「ややや、やっちゃったー！！」
　そこには血相を変えて息切れをしている木幡先生の姿がありました。
「ど、どうしたの悠クン？」
「駐車違反……」
「駐車違反？」
「ああ。なんか駐車違反の紙が張られていた」
「そう……仕方ないわね……」
　桜さんの顔色がだんだんと赤みを帯びていきます。
　なんだか非常に険悪がただよっています。
　このままここにいることは危険なような気がします。
「あ、あの、わたし、この辺で……」
　わたしはそそくさと退散しました。
　そして、わたしが家を出たのと、桜さんの怒鳴り声と木幡先生の悲鳴が聞えてきたのは、ほぼ同時でした。